愛子さまのお相手はだれ?と報道

愛子さま ©NEWSポストセブン提供

 愛子さまのご結婚相手は、だれが本命か? といった週刊誌報道を時おり見かけるようになりました。
 皇位継承問題がからんだ、お相手探しです。

 それらの記事はおおむね、旧皇族の中から年頃となった男子をえらんで、養子縁組によって、ふたたび皇族とし、その上で愛子さまのお相手とする、という流れを想定して書かれています。

「旧賀陽宮(かやのみや)家や、旧東久邇宮(ひがしくにのみや)家には、若い男系男子が何人かいる、彼らの内から選んだらどうか」
「その中でも、旧賀陽宮家のご子息が本命だろう」

 この種の記事は、この先さらに配信が増えるでしょう。
愛子さま本人の考えや、ご両親の思いは脇へと置いても、男系男子という条件を第一番にこだわる層からは、よりアピールされるかもしれませんし。

 ところで、旧皇族=旧宮家とは、そもそも誰?
 旧皇族とは、戦後に皇籍離脱をし、民間人として生活するようになった11の旧宮家である 51人の皇族と、その子孫のことを指します。
 この11の旧宮家は、今から約600年前の室町時代に、創設された伏見宮家が元となっていて、そこから兄弟が分家するなどして枝分かれしてきました。旧賀陽宮家や旧東久邇宮家、旧閑院宮家や旧竹田宮家や旧梨本宮家などに。

 上記のような最近の週刊誌報道にたいしては、賛同する声はあるでしょう。
「旧皇族って、天皇家の遠い親せきみたいだし、そこから養子縁組して、愛子さまの結婚相手に選んでも、不自然じゃない、いいんじゃないの」などと。

 そういった考えに反対する意見も、もちろんあります。
 次へ挙げておきましょう。
 上皇さまの学友・明石元紹(もとつぐ)氏による著書『今上天皇 つくらざる尊厳』より、野口武則 毎日新聞論説委員がまとめた記事から挙げます。

──明治になると、伏見宮系の男性皇族が増え、その多くが軍人になった。
 昭和前期の軍部では、要職の陸軍参謀総長に、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)、海軍軍令部総長には伏見宮博恭(ひろやす)が就いた。
 陸海軍は皇族軍人の権威を利用し、政府内で発言力を強めた。本来なら天皇を助け軍部の独断専行を抑えるべき皇族の重鎮は、軍部の代弁者でしかなかった。

例えば伏見宮は1930年のロンドン海軍軍縮条約に、反対意見を主張して、昭和天皇を怒らせた「もう二度と再び会はん」と(「西園寺公と政局」)。
日米開戦の回避を模索していた41年10月9日には、謁見して強硬に主戦論を唱えた。昭和天皇は「今はその時機ではなく、なお外交交渉により尽くすべき手段がある」と退けた(「昭和天皇実録」)。

 伏見宮に対する苦々しい思いを、昭和天皇は上皇さまに話していた。ある歴史家が上皇さまからきいたという。
 そしてその思いは、先の戦争の歴史への思いと共に語りつがれ、今上天皇と弟の秋篠宮さまは、幼いころから上皇ご夫妻から学び、次世代の悠仁さまや愛子さまらと3代そろって話をきく機会もあるという。

 明石氏の考えは〈皇族の数を増やして体制を充実させても、中身が伴わなければ、皇室はかえって弱体化する〉ということで、養子縁組して増やす案には賛成していないのです。──

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