女性天皇はリリーフだった?

かつての女性天皇は、天皇の代役やリリーフのような役割でしかなかった、という話を、反対派からききました。

この点も、教科書などを読んで、たしかめたくなりました。──

江戸時代の天皇家は、幕府から守られるかたちで、安定してつづいたようです。
109代 明正(めいしょう)天皇は、徳川将軍 秀忠の孫でもありました。

117代 後桜町(ごさくらまち)天皇は、継承するはずの男子が幼かったため、まさにリリーフで即位したようです。その後、後桜町天皇は、新しくつくられた宮家から養子として天皇家に入った、119代 光格(こうかく)天皇を手助けして、役割をおだやかにはたされたようです。

なるほど、江戸時代の女性天皇はリリーフだったといえますね。
けれども時代をさかのぼると、全くようすがちがっています。

46代 孝謙(こうけん)天皇は──天皇の地位を、異母弟(いぼてい・母親がちがう弟)と競いあう、不安定ななかで即位しました。二度目に48代 称徳(しょうとく)天皇として即位すると、いとこが兵を集めて戦いをしかけてきました。そんな落ち着かない中、称徳天皇は、一人の僧をじぶんの継承者にしようと企てるなど、なまなましい生き方をされたようです。

41代 持統(じとう)天皇は──わが息子を皇位継承者にするために、腹ちがいの男子を処刑しています。わが子は残念ながら早死にしたため、みずからが即位しました。権力を、自分から取りにいっていましたね。

35代 皇極(こうぎょく)天皇も──伯父である舒明(じょめい)天皇と、結婚して、のちの天智(てんぢ)と天武(てんむ)という二人の天皇を生みますが、舒明の死後、まずは自分が即位しました。世の中は豪族(ごうぞく)が権力をふるい、クーデターも起こり、いったんは弟に皇位をゆずることになったものの、それでもふたたび37代 斉明(さいめい)天皇として即位しました。やはり国家を治めようとしたからだと思われます。斉明天皇は、東北地方へ蝦夷(えみし)という部族を攻めに行き、それから、朝鮮半島で負け戦をやっていた百済(くだら)を、手助けするために援軍をひきいて九州へと向かいました。その地で亡くなってしまうのですが。リリーフで即位したのではなかったはずです。

33代 推古(すいこ)天皇は──初の女性天皇です。18歳のときに、異母兄(いぼけい・母親がちがう兄)である30代 敏達(びたつ)天皇と、結婚し、その敏達の皇后が亡くなった後に、じぶんが皇后の位につきますが、敏達も32歳で亡くなりました。その棺を前にして、推古の異母兄弟の皇子(=天皇の息子)が、皇位の継承をねらって推古を傷つける事件を起こします。そののち32代 崇峻(すしゅん)天皇も暗殺されましたし。などと、すさまじい権力闘争がくりひろげられる中、推古は、弟である31代 用明(ようめい)天皇の皇子(のちの聖徳太子)に、実務をまかせながら、33代 天皇として国を治めることに力をつくしました。

どの女性天皇も、天皇の代役やリリーフみたいな軽い役割では、なかったと思えます。

──ここまで調べて学んできて、ふと思いました、天皇家の方々は、皇位継承についてどうされたいのだろうかなと。

こども嵐土(らんど)というサイトの中でも、皇室について話題にしています。→ Webサイト「こども嵐土」国のしくみのこと-政治の中の皇室より

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