天皇という呼び名がつかわれ始めたのは、7世紀、第40代 天武(てんむ)天皇のころからのようです。日本史の教科書(山川出版社)にも出ています。
天武天皇は、天皇を中心とした中央集権国家という、さまざまな力を天皇のもとに集中させる、強い国家をつくりました。
なぜなら一つには、大陸や朝鮮の国々とわたり合える、強い日本にしなければならないと考えたからでしょう。
日本はもともとは、鉄がとれる朝鮮半島の南部に活動場所をもっていましたが、663年に百済(くだら・朝鮮半島にあった一つの国)と共に、唐(とう)および新羅(しらぎ)と戦って(=白村江の戦)、負けてしまい、朝鮮から引きあげました。
それからは国防を強化するようにはなったのですが、クーデターを起こして、権力を手にした天武天皇は、さらに外国をいしきしながら国を治めていきました。
天武天皇は、中国の歴史書にならって国史をまとめましたが、それはのちの『日本書紀』のベースになります。
『日本書紀』は、神々の時代から41代の持統(じとう)天皇までのことをしるした、奈良時代の歴史書です。
神々の時代をうつしているからか、古代天皇は、おおむね100歳越えの長寿としてしるされています。
14代の天皇からが実在した人物だと、歴史家はしめしています。
しかしそのあとも、5世紀に中国大陸へわたって貢物をしていた、倭(わ)の五王(ごおう・当時の日本国の五人の王)を、5名の天皇として、『日本書紀』には書かれています。
それからまた、25代の武烈(ぶれつ)天皇には継承者がいなかったので、約200年さかのぼった共通の祖先をもつ家から、継体(けいたい)天皇が、26代として北陸地方からやってきた、となっていますが、後世の歴史家によって、そこは王朝が変わった、とも分析されています。
また天武(てんむ)天皇は『古事記(こじき)』という、天地の始まりと神々の物語と、そして天皇家の歴史を、文学的にまとめた歴史書もつくらせました。
天武天皇と、その皇后だった持統天皇の時代には、天皇が神格化= 神のようにされていき、その権威= 価値と力は、ゆるぎないものになったようです。