明治までの時代は、天皇家は仏教徒として、長いあいだ弔(とむら)いをされてきたそうです。明治天皇の父上である、121代 孝明(こうめい)天皇までは。
日本には昔から全国あちこちに、豊かな自然より生まれた八百万の神々(やおよろずのかみがみ)をまつる神社があり、その後、大陸からわたってきた仏教ともなじんだため、神社とお寺が、いっしょになった場所がとても多くありました。
けれども明治時代、国家神道をおし進める政府は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といって、寺をこわしたり、小さい神社も無くしたりしてしまいました。
天皇家は、鎌倉時代の87代 四条(しじょう)天皇の葬儀を、京都にある泉涌寺(せんにゅうじ)でおこない、墓所もつくりました。
その後、室町時代の北朝 第4代 後光厳(ごこうごん)天皇(=南北朝時代の北朝の天皇)から、121代 孝明(こうめい)天皇まで、葬儀はずっと泉涌寺でおこない、江戸時代に入ってからは天皇皇后ともに、この寺院に葬られていました。(内田樹ブログ「廃仏毀釈について」参照)
明治時代になると皇室では、このような仏教にもとづく儀式はいっさい止めになり、神道の儀式だけとなりました(伊藤聡著『中世神道研究の立場から』より)。
──明治時代は、国家神道に合わせた新しい伝統が、国家によってひろめられた時代、ともいえるのではないでしょうか。