愛子さまのお相手はだれ? と、またもや週刊誌報道

愛子さま ©NEWSポストセブン提供

 愛子さまは将来どんなお相手と、どこで出会って、どのような恋愛をなさるんだろう…といった記事が、週刊誌をにぎわせています。

 けれども愛子さまは現時点では、皇籍を離れて民間の方と結婚してどこかの街に暮らすのか、あるいは、ひきつづき皇族のままで居ることになるのか、といった具体的な将来設計は、できずにいます。ご両親を含めて、それはお気の毒な状態です。
国会にて、皇位継承問題にまつわる議論が始まらないからです。
 政府も与党自民党も、女性天皇をめぐる議論はしたがらないようで。
 ただし政府は、「皇統に属する男系の男子」を養子縁組で皇族にして、そのうえで愛子さまのお相手とする、といった案を、以前から進めたがってきました。

 当サイトでは「養子縁組で皇族にする案」について9月7日にあげましたが、以下へ再掲しようと思います。
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 愛子さまのご結婚相手は、だれが本命か? といった週刊誌報道を時おり見かけるようになりました。
 皇位継承問題がからんだ、お相手探しです。

 それらの記事はおおむね、旧皇族の中から年頃となった男子をえらんで、養子縁組によって、ふたたび皇族とし、その上で愛子さまのお相手とする、という流れを想定して書かれています。

「旧賀陽宮(かやのみや)家や、旧東久邇宮(ひがしくにのみや)家には、若い男系男子が何人かいる、彼らの内から選んだらどうか」
「その中でも旧賀陽宮家のご子息が、本命だろう」

 この種の記事は、この先さらに配信が増えるでしょう。
 愛子さま本人の考えや、ご両親の思いは脇へと置いても、男系男子という条件を第一番にこだわる層からは、よりアピールされるかもしれませんし。

 ところで、そもそも旧皇族=旧宮家とは、どういう方なんでしょ?
 旧皇族とは、戦後に皇籍離脱をし、民間人として生活するようになった11の旧宮家である 51人の皇族と、その子孫のことを指します。
 この11の旧宮家は、今から約600年前の室町時代に、創設された伏見宮家が元となっていて、そこから兄弟が分家するなどして枝分かれしてきました。旧賀陽宮家や旧東久邇宮家、旧   閑院宮家や旧竹田宮家や旧梨本宮家などに。

 上記のような最近の週刊誌報道に、賛同する声はあるでしょう。
──旧皇族って、天皇家の遠い親せきみたいだし、そこから養子縁組して、愛子さまの結婚相手に選んでも、不自然じゃない、いいんじゃないの──などと。

 もちろん、それに反対する意見もあります。
 次へ、その反対意見を挙げましょう。
 上皇さまの学友・明石元紹(もとつぐ)氏による著書『今上天皇 つくらざる尊厳』より、野口武則 毎日新聞論説委員がまとめた記事から抜粋します。

──明治になると、伏見宮系の男性皇族が増え、その多くが軍人になった。
 昭和前期の軍部では、要職の陸軍参謀総長に、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)、海軍軍令部総長には伏見宮博恭(ひろやす)が就いた。
 陸海軍は、皇族軍人の権威を利用し、政府内で発言力を強めていった。本来なら天皇を助け軍部の独断専行を抑えるべき皇族の重鎮たちは、軍部の代弁者でしかなかった。

 例えば伏見宮は1930年のロンドン海軍軍縮条約に、反対意見を主張したため、昭和天皇を怒らせた、「もう二度と再び会はん」と(「西園寺公と政局」)。
 日米開戦の回避を模索していた41年10月9日には、謁見して強硬に主戦論を唱えた。昭和天皇は「今はその時機ではなく、なお外交交渉により尽くすべき手段がある」と退けた(「昭和天皇実録」)。

 以上のような伏見宮に対する苦々しい思いを、昭和天皇は上皇さまに話していた。そのことは、ある歴史家が上皇さまからきいたという。
 そしてその思いは、先の戦争という歴史への思いと共に、代々語りつがれ、今上天皇と弟の秋篠宮さまは幼いころから、上皇ご夫妻から学び、次世代の悠仁さまや愛子さまらと3代そろって話をきく機会もあるという。

 明石氏の考えはつまり〈皇族の数を増やして体制を充実させても、中身が伴わなければ、皇室はかえって弱体化する〉ということです。
 養子縁組して男系男子を増やす案には、賛成していません。──

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