
なるほドリ・毎日新聞のキャラクター
いま現在ゆいいつの皇位継承者は、悠仁さまだけ、という現状をなんとか改善するためにと、政府から1つの案が国会に提出されています。
旧宮家の血をひく男系男子を、養子縁組して、皇族に復帰させ、将来的に皇位継承者になり得る男子を増やそうという案です。
敗戦直後に皇族を離れて民間人となっている、旧宮家の中からその男子をえらんで。
その案は、政府が設置した有識者会議の中でまとめられたのですが、実はその出所は、日本会議という保守系団体でした。
今から約600年さかのぼれば、旧宮家は皇室とつながっていると分かる、だから養子縁組で皇室に入っても、その男子はうまく収まり、伝統は継承されるというのが彼らの主張。
上記の案=旧宮家を皇族に復帰させる案に、一例をあげて、反論している記事を見つけました。
【昭和史の教訓つなぎたい】野口武則 毎日新聞論説委員 5月6日
野口論説委員の反論は、上皇さまの学友・明石元紹(もとつぐ)氏のことばに沿ってなされています。
明石氏の著書『今上天皇 つくらざる尊厳』(2013年)と、そしてかつてその明石氏に、野口論説委員が行ったインタビューに沿って。
その記事から一部を抜粋させてもらいます。
──明治になると、伏見宮系の男性皇族が増え、その多くが軍人になった。
昭和前期の軍部では、要職の陸軍参謀総長に、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)、海軍軍令部総長には伏見宮博恭(ひろやす)が就いた。
陸海軍は皇族軍人の権威を利用し、政府内で発言力を強めた。本来なら天皇を助け軍部の独断専行を抑えるべき皇族の重鎮は、軍部の代弁者でしかなかった。
例えば伏見宮は1930年のロンドン海軍軍縮条約に、反対意見を主張して、昭和天皇を怒らせた「もう二度と再び会はん」と(「西園寺公と政局」)。
日米開戦の回避を模索していた41年10月9日には、謁見して強硬に主戦論を唱えた。昭和天皇は「今はその時機ではなく、なお外交交渉により尽くすべき手段がある」と退けた(「昭和天皇実録」)。
伏見宮に対する苦々しい思いを、昭和天皇は上皇さまに話していた。ある歴史家が上皇さまからきいたという。
そしてその思いは、先の戦争の歴史への思いと共に語りつがれ、今上天皇と弟の秋篠宮さまは、幼いころから上皇ご夫妻から学び、次世代の悠仁さまや愛子さまらと3代そろって話をきく機会もあるという。
・明石氏の考え〈皇族の数を増やして体制を充実させても、中身が伴わなければ、皇室はかえって弱体化する〉
・野口論説委員の考え〈男系男子の数を増やし「体制」を整えるだけでは十分とはいえない。歴代天皇がつないできた国民の幸せを願う精神や、歴史からの教訓という「中身」を、先代の背中を近くで見てきた次の世代が継承することが不可欠ではないか〉──
以上が記事からの抜粋です。
上記の1案については、他の角度から反論をしている方もいます。
さて、その1案をまとめたのは政府設置の有識者会議でした。
しかしそもそも有識者会議の、そのあり方自体に、大きな片寄りや問題があったことを多くの人が指摘しています。
国会ではぜひとも、女性・女系天皇を待望している時代の声にも耳をかたむけて、議論をすすめてもらいたいです。