夫婦同姓(ふうふどうせい)も明治から?
夫婦や家族が一つの名字を名のるようになったのは、明治時代に民法が成立してからで、それまでは日本でも夫婦別姓でした。明治時代に家父長制が取り入れられて、それまでの伝統や風習が変化し、それが現在まで続いていたりしています。
夫婦や家族が一つの名字を名のるようになったのは、明治時代に民法が成立してからで、それまでは日本でも夫婦別姓でした。明治時代に家父長制が取り入れられて、それまでの伝統や風習が変化し、それが現在まで続いていたりしています。
天皇家は明治までの時代は、仏教徒として振る舞い、葬儀も行っていました。泉涌寺には墓所もつくりました。しかし明治時代になると、皇室では国家神道に合わせた儀式だけが行われるようになりました。
かつての女性天皇は、天皇の代役やリリーフのような役割だったとも言われます。江戸時代の女性天皇はそのようでしたが、しかし調べるともっと前の、46代孝謙 41代持統 35代皇極 33代推古 の女性天皇たちは決してリリーフではありませんでした。
皇位継承問題は、国会で議論していく問題です。ただ天皇家の人々も、いろいろな手段で想いを表明しています。上皇のいとこである久邇邦昭氏は自著の中で、旧皇族をまた皇籍にもどす案には「何を今さら」と反対しています。
昭和天皇の末の弟の三笠宮崇仁さまも自分の考えをしばしば公表しました。「皇族の婚姻」については「皇族の性教育はなっていなかった。種馬か種牛を交配する様に、無理に押しつけ…若い皇族が血の涙を流した」等、人権のない天皇家のことを。
1959年に皇太子が結婚した美智子さまは初めての民間からのお妃で世の中にミッチーブームがわき起こりました。昭和天皇も喜ばれた。ただし平民出身者ではダメたという考えは根強くあって、右翼なども使って排除する動さえありました。
平成時代の象徴天皇であった、明仁(あきひと)天皇は、2009(平成21)年4月8日、結婚50年にさいしての記者会見の...
日本の形は共和制すべきという意見等もありますが、大多数は現在の立憲君主制に賛同していると思います。だからこそ、明治時代につくった皇室典範はかえて女性天皇も認める法律にして、皇位継承問題を解決すれば良いのではないでしょうか。
政府は、今後「皇女」という制度を新たにもうけて、天皇家一族(皇族)が、とり行ってきた公務を、その皇女に担ってもらうという案を示しました。それよりも先に、皇位継承問題の議論を進めるべきではないでしょうか。
政府は、第5次男女共同参画基本計画を、閣議決定しましたが、第4次計画より、内容はかなり後退しました。「選択的夫婦別姓」の一語も消えています。自民党右派議員の猛反発のためです。彼らを応援する団体も、大きな影響を及ぼしました。